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菅細工の歴史
菅細工の特徴
菅細工の作り方
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【古代より連綿と伝わる菅細工】

大阪の上町台地の東側に位置する大阪市東成区の深江周辺は低湿地帯で、古代から良質の菅草が豊かに自生する浪速の一島でした。その菅を求めて第11代垂仁天皇の御代に、大和国笠縫邑(やまとのくにかさぬいむら)より、笠を縫うことを仕事とした笠縫一族が深江の地に移住し、菅笠を作り出したのが深江の菅細工の始まりだと伝えられています。そのため、当時の深江は、笠縫島といわれるようになりました。
この一族は代々菅笠を作ることを生業とし、社殿を造り替える20年に一度の伊勢神宮式年遷宮や天皇が即位する際の儀式「大嘗祭(だいじょうさい)」には、深江の菅笠が献納されてきました。

菅笠のことは、万葉集などの歌集にも記されています。

押し照る浪速菅笠置き古し
    後は誰が着ん 笠ならなくに
       (万葉集巻十一・二八一九)

   縫いたつる 心深江の菅小笠
    あめの下にぞ 名はみちにける
       (千種中納言)




【江戸時代には名産品に】

江戸時代には大阪玉造の二軒茶屋を起点として、伊勢音頭をうたいながら、集団で賑やかに参宮したものですが、人々は道中安全を願って、(菅には浄めるはたらきがあると信じられていました)深江で菅笠を買い求めたため菅笠の需要は盛んになり、伊勢参りの流行とともに、深江の菅笠は名産品となっていきました。菅笠 は古くは専ら貴顕の用に供されたものですが、近世に至り、一般人の旅行用あるいは作業に用いられ、伊勢参宮などには必ず携帯する習慣となったことは、寛政8年から10年(1796〜98)に刊行された摂津国の観光案内書 『摂津名所図会』に記されています。

[摂津名所図会 巻之三 東生郡]

名産深江菅笠(めいさんふかえすげがさ) 深江村および隣村多く莎草をもつてこれを造る。ただ深江笠と称して名産とす。
   『万集』  押照るやなには菅笠好き古し後は誰がきん笠ならなくに
   『延喜式』日く、
     内匠寮御輿中子管蓋一具 菅並びに骨料村は摂津国より笠縫氏参り来り造る。
  菅翳(かんえい)二柄 同笠縫作。単功十人。

摂津名所図会




【深江菅細工の今】

江戸時代の末期からは菅の釜敷きや、瓶敷き、皿敷き(今のコースターのようなもの)などの菅細工も作られ、皿敷きは明治や大正の頃には、イギリスやアメリカにも輸出されました。

菅細工は、もともと野良仕事の合間や農閑期となる冬場に女性がする仕事であり、深江のほぼすべての農家で作られていた菅笠ですが、明治以降、こうもり傘や麦わら帽子に押され、菅笠の需要は縮小しました。近代には帽子の普及に伴い菅笠づくりは廃れ、昭和30年代前半には宅地開発が進み、深江菅細工の象徴である深江の菅田がなくなり、職人も激減し深江の菅細工は存亡の危機となりました。

しかし、この深江の地に伝わる菅細工の技術を守り伝承していこうと深江菅細工保存会を立ち上げ、技術は今日まで大切に受け継がれています。深江では今も、歴代天皇即位・大嘗祭の御菅蓋や、伊勢神宮式年遷宮の御料菅御笠・御翳を献納しています。最近では「お遍路ブーム」で菅笠を買い求める人も増えつつあります。保存会は偶然、深江地区の宅地で見つかった菅の苗を株分けしてもらい、住民の提供してくれた土地を使って菅田も復活させました。「技術だけを伝えても意味がない。材料も含め、とことん深江産にこだわりたい」との思いで先人の知恵と技術を継承しています。


山高笠


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